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家系図で理解する徳川将軍継承の話

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アウです。

戦国や幕末の間に挟まれ、妙に地味に思われている江戸時代。しかしそのTOPの将軍を決めるのにも数々の戦なき争いがありました。すんなりいったのは10代目、12代目くらいでしょうか。

そんな徳川家の将軍継承争いについて家系図を元に争点を纏めてみました。各々の時代背景も見えてきます。

 

 

 

1.家康の11人の息子と後継者(2代争い)

 

  まず、最初に初代将軍家康には11人の息子と5名の姫がいました。今回は将軍争いについてなので息子に着目していきます。簡単に全員について記載します。

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長男 徳川(松平)信康

 

今川義元の姪である正室築山殿の子。信長と家康から一字ずつとった名前。

家康の後継者として資質は十分で浜松に移った家康と岡崎に残った信康が分業したりもしていましたが、派閥争いもしくは信康と徳姫(信長娘)と不和が原因で自刃させられる事件が起きました。個人的には前者が原因だと思ってます。ここから後継者問題が発生していきます。

 

次男 結城秀康

 

そして長男亡き後嫡男となってもおかしくなかったのが次男の秀康。しかし家康には生まれた時から嫌われていたようで小牧長久手の戦いの講和条件の中で秀吉の元へ人質、そして養子となりました。名前は秀吉家康より一字ずつ。さらに養子として関東の名門結城家を継ぎ、徳川の天下となっても苗字をかえませんでした。豊臣家では優遇され、6人目の五大老に…なんて声もあがったりしたくらいです。

そして、武勇にもすぐれ、関ヶ原の戦いでも対上杉の備えとして関東にあり、十分に働きました。

次男という点と評判の高さから後継者に推す声も少なくなかったですが、家康との仲や、養子関係などから結局なれず、越前北ノ庄75万石の大大名となった。大坂の陣より早くに亡くなっている。

 

三男 徳川秀忠

 

秀忠の母は三河の名家西郷家の出身で、そういったところから早くから家康から後継者と目される要因となりました。名前は秀吉から一字、忠の字は祖父広忠かな?ここは知らないです。

豊臣時代に既に後継者と目され、家康にもしもの事があれば五大老を継ぐ事になっていました。官位も中納言と、家康利家以外の大老とも同格でした。関ヶ原では真田に苦しめられたり、色々ありましたが、二代目としての幕府の基盤を作るのに十分な素質があり2代将軍になりました。

 

四男 松平忠吉

 

秀忠の同母弟で仲がよかった忠吉。後継者に忠吉を推す声も一部あったのですが2人の兄を超えるには至りませんでした。というか、舅の井伊直政くらいかな。関ヶ原でも直政と共に活躍し、尾張で62万石与えられました。秀康と同時期に亡くなり、子供はなく、弟の義直が遺領を継ぎ、尾張徳川家の基になりました。

 

五男 武田信吉

 

武田家の後継者。武田家に養子入りする。

所領は水戸にあったが早世し、弟頼宣が継ぐ。

 

六男 松平忠輝

 

伊達政宗の婿とも知られる忠輝。秀康同様家康からは嫌われていました。大坂の陣でも活躍しましたが、戦後将軍秀忠に対する無礼を咎められ改易。大坂の陣時点では秀忠に唯一対抗できる存在であったために警戒されたとも。実はもっとも長命で90代まで生きる。

 

七男 仙千代

忠輝の同母弟。早世。

 

八男 松千代

義直の同母兄。早世

 

九男 徳川義直

 

はじめ甲斐、そして忠吉の後を継ぎ尾張62万石の大名になり、後の徳川御三家筆頭、尾張徳川家を創設。今の名古屋の発展につながっていきます。

 

十男 徳川頼宣

 

はじめ、信吉の後の水戸、ついで家康の居る駿府、最終的に玉突き人事で紀伊に移り、紀伊徳川家を創立(55万石)江戸時代を通して血筋は最も栄えました。由井正雪の乱でも関与が疑われたり、気性が激しかったとも。

 

十一男 徳川頼房

 

頼宣同母弟。頼宣の後の水戸を継ぐ。25万石。水戸徳川家を創立。ちなみに御三家ははじめ、将軍家(筆頭)尾張家紀伊家の三家で水戸家は紀伊家の分家のような扱いでした(母同じだから)。家光が「将軍家は別格やろ 」と言ったので尾張(筆頭)紀伊水戸の三家が御三家となりました。

ただ極官大納言の尾張紀伊に対して水戸は中納言と一段低く、特に初期では将軍職を継ぎうる存在だと思われていたか怪しい気もします。

頼房は歳の近い甥の家光と仲がよかったとされてます。

 

2.竹千代と国松の争い(3代目)

 

続いて3代目について見ていきましょう。

はじめ女児が多く生まれ、後継に困っていた秀忠も1604年に竹千代(家光)、06年に国松(忠長)が生まれると状況が変わりました。

明智光秀家臣斎藤利三の娘、春日局によって竹千代は英才教育され、国松は母である正室お江与によって育てられました。

お江与は利発的で可愛げのある国松の方をより可愛いがったため、家臣団もどちらが次期将軍となるか分からなくなりました。

一方の竹千代は女装癖など奇行も多かったため、心配されていました。しかし春日局が駿府城で隠居している大御所家康の元へ直談判した結果、家康が動き竹千代が後継者と認められました。

そういった経緯から家光は父より祖父を尊敬していました。日光東照宮を見てもそれが分かります。

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3.4代目争い

時は流れ、秀忠から将軍職を譲られた家光でしたが、彼は女性嫌いの男色家でもあったので後継者問題が起こっていました。

候補として挙げられたのは、弟忠長(もしくはその子)、結城秀康嫡男松平忠直と家光の姉勝姫との子である松平仙千代(甥)、従弟の尾張光友と紀伊光貞さらには外様だが仲の良い甥の前田光高あたりが噂されてはいました。

しかし1640年頃から男児に次々と恵まれ、嫡男家綱が順当に4代将軍となりました。

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4.御両殿と宮将軍(5代争い)

 

4代将軍家綱は幼くして将軍となりましたが、家光時代の家臣が優秀で滞りなく政が、行われ、さようせい候ともあだ名されました。しかしそういった姿勢が、治世終盤での大老酒井忠清の専横を許してしまいました。家綱は病弱で後継者には恵まれませんでした。そこで注目されたのが御両殿と呼ばれた家綱の弟達。

甲府綱重、館林綱吉の2名。最有力の綱重が家綱より1年先に亡くなったため、綱吉が最有力かと思わましたが、酒井忠清は鎌倉の先例に習い宮将軍を推し、家臣団の合議制で政治を進める事を提案しました。執権狙いだったのかもしれませんね。しかし老中堀田正盛らの反対により頓挫し、失脚しました。

館林から綱吉が江戸に移り、はじめての直系でない将軍が誕生しました。

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5.綱教と綱豊(6代目争い)

 

綱吉には徳松という後継者がいたので、後継者争いはないかと思われましたが早世したため、後継者争いは起きることに。綱吉娘鶴姫の夫である紀伊徳川3代目綱教と血筋の近い甥の甲府宰相綱豊の2名があげられました。綱吉本人は綱教の方が好きな様子だったが、鶴姫そして綱教が順に綱吉よりも早く亡くなったため綱豊が6代将軍となった。

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6.正徳の治と吉通(7代争い)

 

家宣(綱豊)は将軍となり、間部、白石と正徳の治と呼ばれる改革を精力的に行っていたが、わずか4年で亡くなる。幼い嫡男鍋松と名高い尾張4代目吉通が候補として挙げられたが白石の「吉道を将軍とした場合将来鍋松との間に争いがおきる」という意見があったため鍋松が7代将軍となる。

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7.御三家(8代争い) 

7代将軍家継(鍋松)の時代は引き続き間部、白石が政権をとっていたがわずか3年で亡くなり、8代将軍は御三家のいずれかから求められた。

一番血筋が近いのは家宣の弟の清武だったが家臣の家である越智家をわけあって継いでおり、かつ子供もいなかったため養嗣子候補からは外れた。本人もその気はなかったようではある。

水戸の候補は光圀の後を継いだ三代綱條。本人の高齢さ、そして水戸家が他の両家よりも一段低くみられていることから推す人は少なかった。

尾張は7代目候補にも挙がった吉道とその子五郎太が亡くなり、吉道弟の継友が6代目藩主となっていた。有力候補に挙げられたが若さと血縁が一代吉宗より遠いことで落選した。家宣正室天英院が推していた(異論あり)

紀伊徳川5代目吉宗は紀伊藩の財政立て直しも行っており、血筋も十分で家継母月光院や間部からの支持を取り付け8代将軍となった。

 

 

f:id:yurimaeponpon:20180630225143p:plain 8.家重と宗武(9代争い)

 

吉宗の長子は家重であったが、言語障害を抱え、満足に政治ができる状態ではなかった。一方次子の宗武は非常に優秀で父からも期待されていた。

吉宗自身は享保の改革を主導したが、この時代はもう将軍が暗愚であろうとも幕閣がうまく政治を行う時代であったこと、また家重の子家治が優秀だったこと、長子相続ルールに例外をもたらすことがのちの禍となることらを理由として家重が9代将軍となった。家重をコミュニケーションをとれたのは大岡忠光だけであったと言われている。

そして吉宗は御三家に準じて「御三卿」を創設した。宗武が田安家、その弟宗尹が一橋家、更に家治の弟重好が清水家を興し、吉宗が将軍となったように、将軍家のバックアップを務める役割を果たすことになった。この時期尾張、水戸は言うまでもなく、紀伊ですら吉宗従兄の宗直が継いでいたので血縁関係はかなり遠かった。

 

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9.家基と定信と意次と治済(11代争い)

10代将軍家治は優秀だったが政治の表舞台には立たず、田沼意次が政権を握っていた。

田安家は早世と養子行が相次ぎ、2代目を継いだ病弱な治察以外には、優秀だと評判な弟定信しかいなかったが、田沼と治済の共謀で白河藩松平家へ養子に出された。これがなければ将軍になっていた可能性がある。結局田安家は2代で一時的に断絶することになった。

将軍家では家基という後継者がいたが亡くなり、これにより11代将軍を誰にするか議論する必要が発生した。

清水家では将軍家治の弟重好がいたが後継者もなく、将軍候補に挙がらなかった。一代で一時的に断絶する。

一橋家では相次いで兄が養子で出て行ったので治済が2代目当主となった。治済は田沼とも近く、定信を養子に出すのにかかわったり、自身の子豊千代を家治の養嗣子に送り込むことに成功する。それだけにとどまらず、定信と今度は結び田沼を失脚させたり、別の子を田安家に養子に出し継がせたりし、影響力を拡大していった。

 

 

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10.家定と慶喜(13代争い)

一橋豊千代こと11代将軍家斉には53人もの子供がいた。早世も多かったが親藩外様問わず各地へ養子となった。12代は順当に家慶が継いだが、家慶にも子は多かったが成人した男子は家定のみであった。しかし家定は障害を抱えていたため、評判の良い水戸家主出身の一橋家9代慶喜を将軍に考えたほどであった。結局順当に家定が13代を継ぐが、家定は慶喜を嫌うことになった。

 

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11.幕末将軍継嗣問題(14代争い)

言わずとしれた幕末の将軍継嗣問題。

子ができない13代家定の後継者をだれにするかで日本全体が揺れた。

大老井伊直弼はじめとする譜代大名ら保守派は従来の継承ルールに近い、従弟の紀伊徳川14代慶福を推した(南紀派)

老中阿部正弘や島津家などの外様大名といった改革派は一橋慶喜を推し、変化を求めた。(一橋派)

結果南紀派が勝ち、井伊いよる安政の大獄が始まり一橋派は弾圧された。

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12.慶喜と家達(15代争い)

14代を継いだ家茂(慶福)は早くに病に倒れ、後継者として年下の又従弟、田安家7代亀之助を推したが、国難迫ったときに幼年将軍は厳しいということで当時将軍後見職として影響力のあった慶喜が最後の将軍となった。 

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13.その後(16代目)

 

 

慶喜が退いた後の徳川宗家16代は田安亀之助が継ぎ徳川家達となり、維新後一時首相候補となるなど政界に影響力をもった。

 

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